再生エネルギー事業計画概要

バイオマストイレ①.JPG油化装置.jpgⅠ.はじめに  

弊社は、廃棄物を資源化する医療廃棄物油化装置やアスベスト無害化装置の開発に先駆的に取組んできました。更に被災後のバイオマストイレの事業化で、微生物が地球の資源循環の主人公であることを再認識しました。人口減少が進み、耕作放棄地が増大する被災地は、地域の食品残渣等の廃棄物と家畜糞尿等の排泄物を発電や熱エネルギーに変える6次化農業により、安全で美味しい農産物を生産・加工・販売すれば、自然災害と世界不況に強い、持続可能な環境産業を被災地及び全国に創出できることになると考えています。  

  3.11東日本大震災の被害は、千年に一度と言われる程未曾有のものでした。震災前の被災地は、漁業と水産加工品の食料供給地でしたが、2次産業等の工場が空洞化して地域経済が疲弊し、震災の前から人口流出と過疎化が進む状況でした。被災後7年以上過ぎた今も復旧・復興事業が長期化して被災地は、一層の人口流出が加速しています。弊社は、こうした東北の現実に絶望せず、チャレンジ精神を発揮して、廃プラスチックの油化事業、バイオマストイレ事業を推進することで、被災地始めとして、全国過疎地域に雇用と資源循環産業を創出する所存です。そのことに依り、我国の災害対策と地域経済の活性化及び世界経済の循環型形成と地球環境の持続可能性に寄与して参りたいと思います。

2.医療廃棄物等油化装置

病院から毎日出る医療廃棄物の6割はプラスチックです。その処理は、特別管理産業廃棄物として外部委託され、防疫のため専用容器に入れ、専用車両で運び、焼却されます。一方で給湯のため重油を燃料にしてボイラーを毎日焚く病院は多い。従い、毎日発生する医療廃棄物を院内で油化処理すれば、焼却よりCO2排出量が削減され、廃棄物処理代と燃料代が節約出来、地域社会と世界の模範となる資源循環の仕組みが出来上がります。

3.バイオマストイレ  

阪神淡路大震災では下水道施設が破壊されたことにより、各所で深刻なトイレパニックが発生しました。東日本大震災でもトイレパニックが発生し、災害関連死が多発しました。又、被災した下水道施設の原状回復に多くの時間と費用と労力を要していますが、7半年たっても嵩上げ工事は完成せず、今だに道半ばです。   建物の倒壊や火災による被災者を収容する避難場所のトイレは、上水の断水で使えなくなるので、回復まで仮設トイレが設置されます。仮設トイレは、簡易水洗式を含めて基本的に汲取り式なので、臭気が激しく、非衛生的です。特に災害時に学校の体育館や教室等に密集して雑魚寝をよぎなくされるので、お年寄りや女性の被災者は、臭く汚く、和式でしゃがまなければならず、夜は怖い仮設トイレに行く回数を減らすために、水分補給を我慢して、エコノミー症候群等で体調を崩してしまい、最悪の事態には災害関連死が多発しています。 災害直後命が助かっても東日本大震災の災害関連死者数は3,647人に上ります。(平成29年9月30日現在復興庁調査結果)  

  移動式のバイオマストイレは、無臭、無排水、無汚泥なので、災害時の避難場所等の臭く汚い、汲取り式仮設トイレの衛生環境が改善されます。又、今後の災害対策として、普段使いで備蓄すれば、災害時に迅速に初動態勢を取ることが可能になり、避難場所の生活排水の環境負荷と維持管理等も軽減されることになります。

 

震災7年目に想う

 

平成23311日弊社の釜石工場は東日本大震災の津波で屋根を残して殆ど流されました。工場の後ろが高台だったので、一帯の大平鉄工団地関係者は無事に避難ができて、人的被害は1人もありませんでした。私は1446分に釜石駅にいて切符を買おうとした瞬間、突然経験したことの無い激しい揺れに襲われ、駅舎にいたおばあさんは地面にへたり、駐車場の車がボンボン飛跳ね、駅前の新日鉄工場の裏山や空全体に雷鳴が轟く3分間をとても長く感じました。平成17年釜石に企業立地以来、何時か来ると思っていた三陸津波がいよいよ来襲することを120%確信しました。駅周辺にいた人々が地震の被害状況やお互いの無事を確認しているうちに、1.2km先釜石湾側にもうもうと上がった茶色い煙を見た瞬間津波の第1波が襲来したことを感知しました。

 

茶色い煙が海辺一面に広がって、水嵩と速度を増した津波に追われて必死で走ってきたタクシーが津波の先端と一緒に駅前広場に飛び込んできた只ならぬ事態に、駅周辺の人々は駅員の誘導で鉄筋コンクリート5階建の市教育センターに避難しました。屋上に上がり、津波が釜石湾から甲子川を第2波、第3波、第4波と逆流する様子を見ているしかなく、夕暮れの市の中心部からぱっと火の手が上がり避難者の不安が増幅しました。古くも地震に強いことが確認された市教育センターが市の緊急災害対策本部となり、避難所生活を3日間経験することになりました。その日の夜は、お握り1個とペットボトルが各自支給され、渡された段ボールを床に敷いて寝ました。東北の3月は寒く、コンクリートから伝わる冷気に体が縮み、夜中にミシミシと強い余震が繰り返されたので、寝息を立てる人はいませんでした。家族揃って食事が出来ること、暖かい布団で足を延ばして寝られること、何よりも無事に生きていること自体、日常のごく当り前のことが、途轍もなく幸せなことを身に染みて思い知るのでした。

 

翌朝黎明に起きて、災害対策本部の消防関係者が上司に市内状況を死者多数と報告する声を聴く中、釜石湾に面した工場の状況を確認するため、市街中心部の大町を通って大平鉄工団地に向かいました。津波で残ったコンクリート建物を縫う道路は、津波の通り道となり一面瓦礫が折り重なり、ぺしゃんこの車が頭を下にして電柱に張り付いていました。自宅を確認しに来た人々と次々すれ違いました。幹線道路は瓦礫で溢れていて先に進めないので、三陸鉄道高架線路が唯一安全な経路となっていました。線路を工場方向に歩いていると隣の工場社長と出会いました。ずぶ濡れなので尋ねると、地震が来た時釜石湾をビデオ撮影して津波に呑込まれ、裏山の木にしがみ付いて一夜を過ごしたとのことでした。312日朝三陸沿岸の空は青く、まるで街が絨毯爆撃を受けたかのように広がる地上の壊滅的な惨状を際立たせていました。

 

工場に辿り着くと、土台以外に事務所は跡形もなく、工場建屋の鉄骨と痛んだ屋根が残っていました。工場は、海水に洗われて散乱した金属製の廃棄物資源化装置類と大破した4tダンプを残してほとんどが津波で海の底に持って行かれました。工場敷地奥の隣工場の境界地面に、工場入口あった特注の木製の看板が泰然と横たわり、流されずに残っていました。地震が起きてから頭が真っ白で、この先の事を何も思いつかない状態でしたが、地元産材で作った思い入れのある木製の会社看板を確認して、恐ろしい津波第1波の引き波に流されずに工場の最奥でしぶとく横たわっている会社看板が私に再チャレンジを促しているように感じました。18年間廃棄物を仕事にして来た私がこの被災地で何が出来るか。街中目の前に山となった災害廃棄物を片付けることで被災者の生活を守ること、まずそこから始めることをその時決意しました。

 

 2日目は、朝食のパンとペットボトル飲料を頂いてから、釜石湾隣の唐丹湾地域の様子を確かめに三陸鉄道の石塚トンネルを歩きました。1km程あるトンネルは停電のため真っ暗でしたが、登り、下り双方向に人の列は絶えませんでした。その先にある唐丹町は市内でも桜並木で有名な所です。桜並木道の下の海沿い一杯に広がっていた木造の住宅街は壊滅していました。「三陸地方のリアス式海岸は湾口の幅が広く、湾の奥に行くに従って幅が狭く、水深も浅くなるため、津波が押し寄せると漁村や都市、港がある湾の奥に向かって波のエネルギーが集中するという特徴があります。このため三陸海岸は、これまで幾多の津波被害を受けてきました。」(岩手を襲った津波の歴史)昭和8年の三陸沖地震津波の大きな被害を受けて、この下に住んではいけないと言う教訓のために植えられた桜並木でしたが、その教訓は生かされていませんでした。この日は終日崩壊した街の中を憑りつかれたように探索していました。避難場所に戻り、夜のお握りを頂いているとNHKラジオのニュースで財務省は震災の復興資金を確保するために増税を検討すると流れていました。自分の家族と会社に心配かけているので鉄道回復を避難場所で待つのでなく、3日目朝長女に連絡を取り、徒歩で仙人峠を越えて遠野で落ち合い、嫁先葛巻で生きている喜びを分かち、翌夕方トラック便の助手席に載せて貰い、東日本の下道を縦断して東京に戻りました。

 

東日本大震災を体験して地震から津波まで30分あるので、健康であれば逃げる時間があることを確認して、決して恐れる必要は無いと思いました。海の傍にある木造住宅は壊滅状態でしたが、10階建鉄筋コンクリートビルは健在だったので、嵩上工事に7年以上の歳月を掛けているよりも、いざと言う時に逃げられないお年寄りや病人、幼児の居住環境は、老人ホーム、病院、幼稚園等を海の傍でも安全で快適な耐震高層ビルの中に造れば、普段快適に暮らせて、いざと言う時は逃げる必要もなく、上から津波を見物していれば良いのではと言う思いが強くなっています。工場が被災して以来は、別会社を興して釜石地域の災害廃棄物処理事業と復旧・復興土木工事そして福島県の除染作業も行い、被災者の生活再建と被災地域の社会基盤整備や被災地の再生に役立ちたいと事業を続けています。しかし、今被災地で行われている復旧・復興工事事業は人口減少や過疎化の災害前に戻ることに留まっており、関東大震災時に東京府知事後藤新平氏(岩手県奥州市出身)が進めた帝都復興計画のような100年後の全体ビジョンがないことが残念でなりません。  

 

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八幡平市立松尾中学校修学旅行・自主研修訪問について

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 八幡平市立松尾中学校では、生徒の主体的な学習態度を育てるために、修学旅行に於いてグループ別研修を実施しています。これは、東京で事業をしている八幡平市出身者に実際に会って話を聞くことを通して、生徒がその生き方に触れ、体験を踏まえた学びの機会をとすることをねらいとしています。また、首都「東京」と自分たちのふるさと「岩手・八幡平市」のつながりの良さを考え、「岩手・八幡平市」について改めて考える機会にしたいとの学校の考えがあります。

 この企画は八幡平ふるさと会事務局長高橋和一氏(ふるさと大使兼任)が川崎市内の元小学校校長だった経歴で松尾中学から問い合わせが入り、氏の采配で今年の本修学旅行に取り上げられた経緯です。

 上記の趣旨で平成30年4月20日10時~12時、5人の生徒さんに弊社の事務所を訪問して頂きました。弊社を自主研修先として選んで頂けたことは光栄であり、大変有り難く思う次第です。又、普段は目の前の仕事に忙殺されるばかりで、自分の仕事を客観的に眺める機会は少ないので、改めて創業期の初心や今後の展望を確認して、事業意欲を鼓舞する大変良い機会となりました。

 訪れた5人の生徒たちは、先生の引率もなく自分たちだけで会社に辿り着き、会社の事務所では、姿勢がよく、礼儀正しく、あらかじめ会社情報をホームページで調べて各自の質問項目を準備し、協力し合って順番に質問を頂いたので、こちらの想いや説明もスムーズに伝えられた次第です。

質疑応答の内容は、下記です。

・東京から見た岩手県や八幡平市の良さ、魅力はどのようなところですか。

A.何と言っても自然の豊かさ、食材の新鮮さ、美味しさです。八幡平市では左に岩手山、右に八幡平の世界遺産とも思える絶景を眺めながら、厳しい冬にじっと耐えて迎える春の嬉しさ。私は海抜1000メートルの松尾鉱山で生まれて育ちました。10月に初雪が降り11月に根雪になって、2月は時々休校になるほどの地吹雪の中で暮らすので、4月の雪解けの暖かい陽射しの下で眺めたねこやなぎの柔らかな芽が、今でも印象的です。

・今の仕事のやりがいや楽しさ、苦労は何ですか。

A.廃棄物を運搬する仕事を東京で行っていますが廃棄物は燃やしたり、埋めたりするだけだとただのゴミですが、エネルギーとして再利用するための装置開発を釜石で行っています。今世紀に100億の人口爆発が予測されるので、持続可能な地球環境のため役立ちたいと思うやりがいと楽しさがあります。

・これからの岩手県や八幡平市を担う私たち中学生に望むことは何ですか。

A.四季折々の厳しく美しい自然に包まれ家族仲良く暮らす中で、忍耐強く、謙虚で、素直な、世界の人々からも好かれる大谷翔平君のような青年が育つのだと思います。自分の思った通りに生きることが一番幸せと思うので、自分の思った通りに生きて下さい。

・なぜ、この仕事に就こうと思ったのですか。

A.大きな社会問題になっていた廃棄物の不法投棄や環境問題を解決する仕事に取り組むことに生きがいを感じて脱サラしました。東京で会社を興して、医療廃棄物を中心にして廃棄物収集運搬事業を始めました。

・東京都と八幡平市の共通点や違う点は何ですか。

A.人が暮らす場所として、東京は情報や人やお金が集まり仕事も沢山あり、便利です。しかし、競争が激しく、人間関係も希薄で、ストレスなども溜まりやすい難点があります。

八幡平市は、自然が豊かで美しく、食材が新鮮で美味しく、温泉やスキーなど生活の楽しみがあります。仕事や縁故を生かして両方の良さを楽しむのが一番良いのではと思います。

・ここではどういう仕事をしているのですか。この仕事は世の中でどんなことに役立っていますか。

A.平成5年から廃棄物の収集運搬事業を東京で行い、病院からでる医療廃棄物、産業廃棄物、一般廃棄物等色々なものを扱っています。平成17年から廃棄物を資源化する装置開発を釜石で行っています。廃棄物を資源として社会に循環させる事業を通して、地球の持続可能性に役立ちたいと思います。

・ムゲンシステムのムゲンとは何ですか。バイオマストイレは何ですか。

A.人間はじめ、生物の生命には限りがあります。しかし、地球は自然資源を循環せることで46億年続いてきました。この先も地球が続いて行くためには自然資源を枯渇させるのでなく、循環させることにより可能な限り無限に続くことを目指したいと言う意味です。

バイオマストイレは、微生物の力を借りて人間の排泄物を分解して、水洗水循環式、移動可能、汚水排水と汚泥汲取りがない人間と環境に優しい仮設トイレです。災害時体育館等に雑魚寝を余儀なくされる避難場所では、被災者が臭く汚く、膝を曲げ、夜は怖い仮設トイレに行くのを減らすため、水分補給を我慢し、エコノミー症候群で体調を崩してしまい、最悪の事態災害関連死が多発しています。この状況は、阪神淡路大震災以降も新潟地震、東日本大震災、熊本地震と未だに繰り返されています。

・被災地では実際にどのようなことをしているのですか。

A.平成23年3月11日釜石工場は東日本大震災の津波で流されました。沿岸部の木造住宅は壊滅でしたが、10階建鉄筋コンクリートビルは健在だったので、嵩上工事に7年以上を掛けるより、老人ホーム、病院、幼稚園等を沿岸部でも安全で快適な耐震高層ビルに造れば、普段快適に暮らせて、いざと言う時は逃げる必要もなく、上から津波を見物していれば良いのではと思います。工場が被災して以来は、別会社を興して釜石地域の災害廃棄物処理事業と復旧・復興土木工事そして福島県で除染作業も行っています。被災者の生活再建と被災地域の社会基盤整備や被災地の再生に役立ちたいと思います。

・被災地で、進めるうえで、ブレーキになっていることは何ですか。

A.今の復旧・復興事業は人口減少や過疎化の津波前に戻ることであり、関東大震災時の岩手県出身の東京府知事後藤新平さんのような100年後の全体ビジョンがないことです。

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