2014年11月

亡き母、美枝に捧ぐ

黎明の岩手山.JPG大正15年10月12日岩手県葛巻町田部市部内に生まれる。親が酒屋を営んでいたので比較的裕福な家庭環境に育ち、8人兄弟姉妹の結束は固い。生まれて直ぐ年号が昭和に変わる。成長に則し東北を襲った飢饉、広がる世界恐慌、青春時代は戦争の一色に染まり、日中事変から第2次世界大戦、そして迎えた無残な敗戦。生きる過酷さは、想像を絶する。

数多の犠牲の代償で得られた戦後の平和だが、金融と情報の国家統制、他国の戦争への軍隊派遣という問答無用の国家の意思を見ると、もう既に戦前となっている予感がする。男孫が障害を持って生まれたのは、戦争に駆り出されないため、戦争の時代を生き延びるための自己防衛であるような気がしてならない。どうか我孫たちを何時もご加護願います。

昭和20年敗戦後は、名古屋や仙台の工場で働く。昭和24年松尾鉱山に勤める父吉夫と結ばれる。松尾は硫黄鉱山で東洋一の埋蔵量を誇っていた。釜石と双璧で岩手経済を支えていた。運動能力万能で頑健な体力を持つ父は、兵隊検査では甲種合格なので、高崎から中国大陸へ出兵する予定だったが、直前に敗戦を迎えて松尾鉱山への帰還が叶っていた。

雲を眼下に見る海抜1000メートルの嫁ぎ先は、舅、姑、夫を落盤事故で失った小姑と3人の子、夫の弟2人、そして私たち親子3人という大家族だ。父は危険な削岩作業の坑内労働で11人の生活を支えた。その作業環境の結果、珪肺となり生涯喘息に苦しんだ。母は、入院した舅、姑、小姑の介護と53歳の時脳梗塞で倒れた父の介護に人生を費やす。

鉱山長屋の暖房は薪ストーブであり、無料支給の丸太を各家庭巡って回転鋸で輪切りにする専門職の姿は、秋の風物詩だ。しかし、その親指が欠けている人も多いので、作業の危険性に体が震えた。木造長屋の他に戦後すぐ建てられた4階建て鉄筋コンクリートアパートがあり、トイレは水洗で冬はスチーム暖房が完備。住まない鉱山労働者も自慢にした。

お風呂は長屋並びの端に無料の共同浴場があった。冬場、凍てつく夜空を仰ぎ見ながら、湯上りタオルをぐるぐる振り回すと棒のようにカチカチに凍った。長屋端に炊事や洗濯用の共同水道があった。夏は快適だが-15度を記録する冬は地獄だ。コンクリート流し台に5㎝程の氷がびっしり張り付く。11人家族の嫁は無言で米砥ぎや洗濯板の作業をした。

冬厳しい自然条件の中でも、松尾鉱山は給料や福利厚生等の水準と水道光熱費が無料と言う生活条件の良さで最盛時15000の人口を抱えた。だが、雲上の楽園と讃えられたその繁栄は、基幹エネルギーが石炭から石油になった途端に潰えた。昭和37年に希望退職開始。昭和44年閉山。大家族を抱え臨機応変な処世が困難な父は、最後まで残った。

職を失ってヤマを下りた父母は、盛岡開運橋近くにある親戚の問屋業を住込みで手伝い、高3時共に暮らした。父は不慣れな商売を一から始めて耐えていたが、旧知の鉱山仲間に声を掛けられ、高度成長期で景気の良い京葉コンビナート地区への家族移住を決断した。勤めて半年後に建てた新築一軒家は畳の匂いが香しかったが父母に未練はなかったようだ。

昭和45年春千葉市村田町に移住する。市原のサッシ工場に通うため一軒家を借りる。私は家から大学に通った。しかし、大学は紛争の渦中にあり学業は頓挫した。私は大学に通う意味を見失いその鬱憤の屁理屈を母にぶつけて、困らせていた。父は人望と経歴を買われて、大手サッシ子会社工場の初代組合委員長を務めた。その後、その工場長になった。

父の頑張りで昭和49年市原に家を新築した。父は夜勤が多く、日勤の時でも夜中に緊急に呼び出されることが続いていたが、昭和54年に夜勤中に脳梗塞で倒れ、半身不随となった。53歳で活躍の場を失った無念な思いに心が痛むが、右不随でも左で筆を書く練習を続けた。家族一緒に暮らすために昭和60年家を建替えたが、翌年春に父は、人柱のように他界した。

以後夫に先立たれた母の仕事は、孫を育てることに変った。保育園の送り迎え、自宅での世話、私たち夫婦は安心して仕事に専念した。私はサラリーマンに不向きなので、平成5年東京で独立創業した。道の無い所に道を作るので、仕事に忙殺される親の代わりに、母は孫の面倒を見た。孫2人が感じていた親と触れ合う機会と時間の飢餓感をその愛情で潤した。

孫達が独立し、子は仕事に専念するために、母の平日は一人暮らしを余儀なくされた。千葉は暖かく災害も少ないので、とても良い所だと暮らしを楽しんでいた。病気して家族に迷惑を掛けないように朝晩の散歩を習慣にした。9月末入院迄大病はなかった。米寿を病院で迎えた。3週間で退院したが体が限界に来て11月1日再入院。点滴針を自ら外して、5日父の元へ旅立つ。

どんな時代でも、どんな自然条件でも、どんな家庭環境でも、忍耐強く、押し潰されず、愚痴をこぼさず、人に迷惑を掛けまいと気を張り、何時も子や孫を気にかけ、欲はなく、お金は人のために使い、淡々と前向きに、自分を失わず、誇りを保ち、今在るを楽しむ・・・。当たり前のように見えて、その一生を辿ると母美枝の生涯は、なかなか見事なものでした。

合掌