震災7年目に想う

 

平成23311日弊社の釜石工場は東日本大震災の津波で屋根を残して殆ど流されました。工場の後ろが高台だったので、一帯の大平鉄工団地関係者は無事に避難ができて、人的被害は1人もありませんでした。私は1446分に釜石駅にいて切符を買おうとした瞬間、突然経験したことの無い激しい揺れに襲われ、駅舎にいたおばあさんは地面にへたり、駐車場の車がボンボン飛跳ね、駅前の新日鉄工場の裏山や空全体に雷鳴が轟く3分間をとても長く感じました。平成17年釜石に企業立地以来、何時か来ると思っていた三陸津波がいよいよ来襲することを120%確信しました。駅周辺にいた人々が地震の被害状況やお互いの無事を確認しているうちに、1.2km先釜石湾側にもうもうと上がった茶色い煙を見た瞬間津波の第1波が襲来したことを感知しました。

 

茶色い煙が海辺一面に広がって、水嵩と速度を増した津波に追われて必死で走ってきたタクシーが津波の先端と一緒に駅前広場に飛び込んできた只ならぬ事態に、駅周辺の人々は駅員の誘導で鉄筋コンクリート5階建の市教育センターに避難しました。屋上に上がり、津波が釜石湾から甲子川を第2波、第3波、第4波と逆流する様子を見ているしかなく、夕暮れの市の中心部からぱっと火の手が上がり避難者の不安が増幅しました。古くも地震に強いことが確認された市教育センターが市の緊急災害対策本部となり、避難所生活を3日間経験することになりました。その日の夜は、お握り1個とペットボトルが各自支給され、渡された段ボールを床に敷いて寝ました。東北の3月は寒く、コンクリートから伝わる冷気に体が縮み、夜中にミシミシと強い余震が繰り返されたので、寝息を立てる人はいませんでした。家族揃って食事が出来ること、暖かい布団で足を延ばして寝られること、何よりも無事に生きていること自体、日常のごく当り前のことが、途轍もなく幸せなことを身に染みて思い知るのでした。

 

翌朝黎明に起きて、災害対策本部の消防関係者が上司に市内状況を死者多数と報告する声を聴く中、釜石湾に面した工場の状況を確認するため、市街中心部の大町を通って大平鉄工団地に向かいました。津波で残ったコンクリート建物を縫う道路は、津波の通り道となり一面瓦礫が折り重なり、ぺしゃんこの車が頭を下にして電柱に張り付いていました。自宅を確認しに来た人々と次々すれ違いました。幹線道路は瓦礫で溢れていて先に進めないので、三陸鉄道高架線路が唯一安全な経路となっていました。線路を工場方向に歩いていると隣の工場社長と出会いました。ずぶ濡れなので尋ねると、地震が来た時釜石湾をビデオ撮影して津波に呑込まれ、裏山の木にしがみ付いて一夜を過ごしたとのことでした。312日朝三陸沿岸の空は青く、まるで街が絨毯爆撃を受けたかのように広がる地上の壊滅的な惨状を際立たせていました。

 

工場に辿り着くと、土台以外に事務所は跡形もなく、工場建屋の鉄骨と痛んだ屋根が残っていました。工場は、海水に洗われて散乱した金属製の廃棄物資源化装置類と大破した4tダンプを残してほとんどが津波で海の底に持って行かれました。工場敷地奥の隣工場の境界地面に、工場入口あった特注の木製の看板が泰然と横たわり、流されずに残っていました。地震が起きてから頭が真っ白で、この先の事を何も思いつかない状態でしたが、地元産材で作った思い入れのある木製の会社看板を確認して、恐ろしい津波第1波の引き波に流されずに工場の最奥でしぶとく横たわっている会社看板が私に再チャレンジを促しているように感じました。18年間廃棄物を仕事にして来た私がこの被災地で何が出来るか。街中目の前に山となった災害廃棄物を片付けることで被災者の生活を守ること、まずそこから始めることをその時決意しました。

 

 2日目は、朝食のパンとペットボトル飲料を頂いてから、釜石湾隣の唐丹湾地域の様子を確かめに三陸鉄道の石塚トンネルを歩きました。1km程あるトンネルは停電のため真っ暗でしたが、登り、下り双方向に人の列は絶えませんでした。その先にある唐丹町は市内でも桜並木で有名な所です。桜並木道の下の海沿い一杯に広がっていた木造の住宅街は壊滅していました。「三陸地方のリアス式海岸は湾口の幅が広く、湾の奥に行くに従って幅が狭く、水深も浅くなるため、津波が押し寄せると漁村や都市、港がある湾の奥に向かって波のエネルギーが集中するという特徴があります。このため三陸海岸は、これまで幾多の津波被害を受けてきました。」(岩手を襲った津波の歴史)昭和8年の三陸沖地震津波の大きな被害を受けて、この下に住んではいけないと言う教訓のために植えられた桜並木でしたが、その教訓は生かされていませんでした。この日は終日崩壊した街の中を憑りつかれたように探索していました。避難場所に戻り、夜のお握りを頂いているとNHKラジオのニュースで財務省は震災の復興資金を確保するために増税を検討すると流れていました。自分の家族と会社に心配かけているので鉄道回復を避難場所で待つのでなく、3日目朝長女に連絡を取り、徒歩で仙人峠を越えて遠野で落ち合い、嫁先葛巻で生きている喜びを分かち、翌夕方トラック便の助手席に載せて貰い、東日本の下道を縦断して東京に戻りました。

 

東日本大震災を体験して地震から津波まで30分あるので、健康であれば逃げる時間があることを確認して、決して恐れる必要は無いと思いました。海の傍にある木造住宅は壊滅状態でしたが、10階建鉄筋コンクリートビルは健在だったので、嵩上工事に7年以上の歳月を掛けているよりも、いざと言う時に逃げられないお年寄りや病人、幼児の居住環境は、老人ホーム、病院、幼稚園等を海の傍でも安全で快適な耐震高層ビルの中に造れば、普段快適に暮らせて、いざと言う時は逃げる必要もなく、上から津波を見物していれば良いのではと言う思いが強くなっています。工場が被災して以来は、別会社を興して釜石地域の災害廃棄物処理事業と復旧・復興土木工事そして福島県の除染作業も行い、被災者の生活再建と被災地域の社会基盤整備や被災地の再生に役立ちたいと事業を続けています。しかし、今被災地で行われている復旧・復興工事事業は人口減少や過疎化の災害前に戻ることに留まっており、関東大震災時に東京府知事後藤新平氏(岩手県奥州市出身)が進めた帝都復興計画のような100年後の全体ビジョンがないことが残念でなりません。  

 

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